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自分の内側の真実を如何なる場面においても語ることができないのは喉のチャクラにブロックがあります。

スピリチュアルが好きだけど周りに話しをできる人がいないという方はたくさんいます。

この現象が意味している現実は、“自分はスピが大好きであなたにもそれを伝えたい”という衝動の自己否定です。

もしくは、自己の真実に対する罪悪感です。

この内側の現実が外側の現象を生み出しているに過ぎず、降り掛かる望まない現実の多くは自らの心の有り様によって左右されているのです。

“私は○○が好きです”そしてそれを皆に伝えたいという段階に至るには、自分の真実を信じる『Faith』が必要です。

これは10年前から講座しているように第三チャクラの範疇です。

この『Faith(信)』に関することは一度、スクールの学年を通してのテーマともしましたが、やはり総体的に言って現代日本人が弱い部分です。


それが形而上学の衰退と密接に関わっており、その『Faith』の再生が社会的に非常に重要な課題になっているということは、スピリチュアルを生み出した背景や巡礼ワークをやる意義についての説明でも何度も行ってきたことでもあります。

東京で意外とこの『Faith』が理解されやすいのは、故郷を捨てて、自分を信(Faith)じて上京する人が多いからでありますが、本来は自分の信じた道を歩むというのは成人の前に獲得しているべき価値観でもあります。


論理的に申し上げて、それが出来ていないことが恥ずかしいことなのではなく、ひょとしてそういうこともあるかもしれないという創造性が欠如していれば恥ずかしいことなのだと思います。その創造性の欠如が、福島原発事故のことを<遠く離れた土地での出来事>と誤解釈し<だから私には関係ない>と自己正当化する根源的原因になっているのだと感じます。

 

すべてはつながっていますので、わからないことがあればわからないと表現し、わかったらすぐに行動する。その行動がひとりよがりな仲良しクラブなものでないか精査する。

そういうことを国民ひとりひとりが自分のこととして実行した時に日本全体、自らを取り巻く目の前の全体は変わります。

論理的に指摘すると必死になって抵抗してくる、その裏に<現状肯定と自己保身>がある場合は要注意です。しっかりとジャッジメント(切り分け)を行い、病原体を除去する作業が必要です。


エネルギー感覚が鋭い方々は、どこからエネルギーが発せられているのかを即座に読み取ることができますので、今まで通りご自分のエネルギー感覚に基づきお進み頂ければと思います。


まだまだ現状、当事者意識は低いのでこれを読まれた方はぜひこのセッションを受けられて、個人の真実の表現の解放がより良い社会の解放になるという真実に到達して頂ければとも思います。

社会の雰囲気を生み出しているのは、私たちひとりひとりの意識です。

会社で言えることができなければその会社を言える場に自分がしていけばよいだけのことです。

それをやろうとしないこと、それをできる立場にないと“怖れ”を自己正当化すること、そのような負の連鎖からFly Away


“できない理由”を探すのは、多くの人の得意業です。逆に“乗り越えられる力”を探すのは限りなく少ない人たちです。

自分がどちら側の人間かは、この文章を読んで今日から何かをやり始めたかで判定することができます。


“誰かがやってくれるだろう”という人任せな無責任主義が巨大になると弱い者を犠牲にするシステムが出来てしまいます。当人たちに罪の意識はほとんどありません。

自分たちの社会をFaithし、今日から行動する行動意欲。

自らが望む人間関係を構築するのもそれを達成するためのひとつの入り口だと思います。

 

 

 

 

  

料金

 

 

¥35,000-

 

 

1day巡礼講習+アフターサポートコミュあり(ご希望者) 

 

 

 

☆kohya_hibiki

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コメント: 7
  • #1

    yukimidori (土曜日, 24 10月 2015 11:08)

    帰省したときの出来事です。甥っ子と触れ合っているときのことでした。
    長男(3歳)は好きなものを好きだとはっきりしていて、絶対に好きなものは自分のものにしようとします。人でもおもちゃでも何でも。そして、私が好きなようで私にべったりです。帰省するとまとわりつくのです。「だって、好きなんだもーーん」とはっきり告白されましたよ(笑)

    次男(2歳)は私から離れています。距離を置いています。誰に対しても警戒心があります。遠くからこの人は大丈夫だろうか?とじーーーとみています。人懐っこい長男とは大違い。好きなものを好きだと素直になれない。

    次男の癖は、好きなものを見つけると、すぐに「はいっ」と大人にあげてしまうことです。大人から何かもらっても、すぐに別の大人にあげてしまいます。大人は勘違いします。そして言います。

    「え!もらっていいの!?○○くんは、すごく心が優しいんだねーありがとうね☆」

    大人からものすごく褒められて、これでいいんだと納得しているかのように。自分の好きなものを我慢して、大人にあげると皆に褒められるんだな、と思ったかのように。自分の手に自分の好きなものを持っていたら、長男に奪われてしまうし、いじめられるし、それをみても大人は自分をかばってくれない。守ってくれない。長男ばっかりになる。しょうがないなーで終わりだから。

    私はこの状態をはじめてみたとき、みごとに勘違いをしていました。
    「次男は心優しいんだな」と。でも、その出来事を母に話すと「違うよ」と言われてしまいました。母曰く、自分が持ってたら怖いから、大人に預けているだけだと。そして、褒められるから良いんだと、ママだって褒めてくれるからそれでいいんだと思い込んでしまうと。

    好きなことを好きといえない、肯定できない、周りに伝えられない、欲しい物を欲しいと要求できない。手に入れようとしない。それは、何故かというインナーチャイルドのようなイメージを次男から感じました。
    (ただ、後から聞いた話では、次男は長男とけんかをして取り返したぐらいに成長しているそうです)

  • #2

    yukimidori (火曜日, 03 11月 2015 15:21)

    いつも参考にしている「筋トレ」月読み

    今週の水瓶さんへのメッセージを読んで、
    なるほどーーーと思いました。
    「役割」について

    私は、そういう状態に近いのかもしれません。
    広報については「それをやりたいかどうかは分からないけれど、
    助け合うことは大切なので、一生懸命にやっている」と書きました。

    (そのような解釈もできるのかなと思います)

    食べる人の食欲があって
    料理人の仕事が成立します。
    どんな仕事も、そんなふうに
    「誰かの欲望」が元になって、成り立っているのだろうと思います。
    今週、誰かの強い欲望や期待が、
    貴方の役割を「成り立たせる」ことがあるのではないかと思います。

    たとえば、危険から身を守るような営為は、
    マイナスをゼロに押し上げる、ということだろうと思います。
    であるなら、欲望は、ゼロからプラスに向かう力
    といえるかもしれません。
    たぶん、それが無くても困らないかもしれないけれど
    それでも敢えて手を伸ばしたい、という、
    熱く激しい思いです。
    今週の貴方は、誰かのそうした熱い思いに動かされて、
    あるポジションに立つのだろうと思います。

  • #3

    yukimidori (水曜日, 04 11月 2015 07:24)

    言葉を失うについて思うこと感じること

    「言葉を失う」と書いてあるのをみて、私はある時期のことを思い出します。中学校のある時期から、言葉で何かを説明するのが難しいと感じるようになりました。今まで口から言葉がスラスラ出てきてたのに、何でこれまでのように言葉を自由に使って何かを表現することが出来なくなったんだろう?と中学校時代の私は感じました。単語はOKだけれど、単語と単語を組み合わせて文章を作って、起承転結を考えて説明するとなると何だか難しい。お友達としゃべっていたりするとき、上手くしゃべれない。今まではお友達に勉強などお互いに説明しあってたのに、何だか言葉が上手く使えない。・・・そこでわたしの心の中に「恐怖の感情」が生まれてきました。「言葉でちゃんと説明できなかったらどうしよう?しゃべれなかったらどうしよう?会話が途切れて変に思われたらどうしよう?」とう具合です。それは、先日説明したような話し合いのなかで、「皆の会話がちゃんと理解できなかったらどうしよう?」に繋がっていくことだと思いました。それにしても、何故私は中学校のあの時(高校だったかな?)、言葉が急に上手く使えなくなったんだろう?と思います。こども心ながら、けっこう深刻でした。それが転じて?高校時代の国語の成績は酷いものでした。中学のときはそのようなことはなかったのですが。恐怖症になってました。「国語の現代文のテスト」がぜんぜん駄目でした。テスト開始!と言われて、テスト用紙を表に返していざ現代文を読んでいくときに、「長文」を目の前にして常にめまいがしていました。肉体的なものではなくて、精神的なめまいです。読む姿勢に入っていけなくて、ただ恐怖の感情でいっぱいになって、文字を目で必死に追うだけになっていました。そのときは「文章の内容が理解できなかったらどうしよう?」でした。理解できなかったら、、と思うと本当に理解できなくて、先へ読み進めていくことが出来なくて、出来ないからまた最初に戻って読み直して、でも「理解できなかったら」という感情に支配されていて、どうしても駄目でした。やっとのこと読み終わっても、内容が心に入っていかないと思うので、点数はいつも最悪でした。偏差値とか30台、40台だったと思います。なので、長文のテストは嫌いでした。けれども、英語は英語の長文は得意でした(笑)誰よりも高得点を取っていました。偏差値など英語は60台、70台でした。長文は特に稼ぎポイントだと思ってました。すごいギャップに先生たちは頭をひねってました。国語さえ、国語の現代文さえ、せめて人並みであれば。そのことを克服したくて、家ではいつも国語の長文の問題集ばかりをやっていました。自宅でやるときは、恐怖はほとんどないのだけれど、それは何かしらのプレッシャーから開放されていたからでしょうか。そのわけのわからない変な癖は、確実に偏差値にも影響してました。このように「言葉を失う」ということに焦点をあわせたら、自分自身の中学生高校時代のことを思い出しました。そして、その癖は今も深く心の問題として影響していると感じました。今は、このことに改めて気がつきました。繋げて考えたことはなかったので、何を意味しているのだろうと、私はこのことから何の問題点に気がついて、それをどう克服したらいいのだろう?と思います。

  • #4

    yukimidori (水曜日, 04 11月 2015 07:43)

    ・趣味の世界の話し合いの場では(実行委員などまじめな話をする時。つまり理解できないと皆に迷惑がかかると思われるときに限る)
    「皆の話が理解できなかったらどうしよう」

    ・仕事をやっていた時期は、朝の会議の「申し送り」など理解できなかった。それだけではなくて、集団で協力し合って仕事をやっていくときに、やはりその状態に陥った。これは、今思うと理解力が無かったわけではなくて、精神的な混乱とフリーズ状態になっていたんだと思います。「理解できなかったらどうしよう」→本当に理解できないことになった

    ・文章を読んだり、人の話を聞いたりすることが「出来なかったらどうしよう」状態になると、本当に出来なくなって周りに迷惑もかかって、当然チームワークでやっていくことが困難になります。それを私は「理解力が無い、仕事が出来ない」と自分自身にレッテルを貼りました。そして、自分自身に「私にも知的障害があるのではないか?」と疑うようになりました。ネットで私のような症状のあるパターンを調べたりして、そのくらいに深刻でした。学習障害とかも思いました。今の私は、人前で何かを書くことも困難を感じます。漢字が駄目だし、文字は綺麗ではないし、書き言葉についても恐怖を感じています。このように「言葉を失う」状態なのだと思います。

    言葉を失うとはどういうことなんだろう?と思います。精神的ショックがあったとして、言葉を失ってもいいと思ったのでしょうか。よく分かりません。自ら言葉の能力みたいなものを(言葉を使う能力)を封印するみたいなことをやってしまうこともあるのかな?と思いました。でも、それは無意識の領域でなされてきたことなので、本人は気がついていませんでした。それで、言葉を使えない状態になってしまったときに、無自覚である以上「理解力が無い」「仕事が出来ない」と思い込んでしまう結果になるのかなとイメージしました。

  • #5

    yukimidori (水曜日, 04 11月 2015 07:56)

    ルカの気持ちを想像してみる

    「出来なくなってしまった瞬間」というのを私は人生の節目としてその光景をたぶん覚えています。その瞬間、もしかしたら私の中で「分離」がおこったんだと思います。良く分かりませんが、インナーチャイルドが時をとめてしまい、たとえば「ルカ」がこのままがいいと思うとします。ある時期までは私と上手くやっていけるけれども(私も言葉を使える年齢に達してないし)、でもそろそろ私も成長していかないといけないので、言葉の使い方にしても年を重ねるうちに上達していかないといけません。周りのお友達とも色々な話をするのに言葉は大切です。でも、「ルカ」はいつも暗闇に隠れて震えて外の世界に行きたくないと思っていました。なので、私の目を耳を口を塞ごうとしました。外を見ないで聞かないで、しゃべらないで、怖いから、と。ルカ自身の世界を守りたかったと。そんなルカに私はこれ以上はつきあってられないと感じました。なので、わたしたちはさよならをしました。一緒に成長していくのを選択せずに「離れる」ことにしました。だって価値観が違うんだもん、違うから別に道をすすもうと。ルカも私も、これからはずっと同じ価値観を持つ人だけを探し続けるのでした。そのたびに、私は年齢を重ねるうちに分離分離を繰り返していくだけなのでした。あちらこちらに、歪んだ時計だちが時を止められて、海底深く沈められています。それを「ルカ」は男の子の力を借りて一緒に探してもらっています。
    (妄想過ぎますけれど、何か解決法がないかと何でもいいので書いてみることにしました)

  • #6

    yukimidori (水曜日, 04 11月 2015 08:27)

    何故「言葉を失う」を選択したのだろう、と思います。子供のときは無自覚だから、大人のように理由があるから、理由を知っているから言葉を失おうとは思いません。理を加えるというのは、その理由を知るということだと思うこともOKだとして、「リサ」さんが出てきたことは、「何故そうなるのか分からなくて(何故理解できないんだろうなど)」悩んでいたことも、今後は「理由(原因)を知る能力」が目覚めることで、状況が変わってきますよと前向きに考えていきたいです。

  • #7

    yukimidori (木曜日, 05 11月 2015 08:41)

    スピリチュアル系サークルやオーガニック系サークルなどは、世の中が良くなっていけば自然となくなっていくものだと思います。世の中の不都合な部分を否定したくて(消したくて)、正義を主張するサークルが生まれてくるとしたら、両者はコインの裏表だと思います。私が感じることは、世の中を変えよう的な世界は、落とし穴みたいな空間があるなと思っていて、注意が必要かなと思いました。それは物事を「良い悪い」で区切ってしまうことです。そうなることは自然なことではありますが。良い悪いで区切っていく限りは、良いものは良いけれど、こじんまりとした世界観にとどまってしまうと思うし、悪いと思うと批判したり排除したりします。世の中悪いものだらけと思い込んでしまうことも可能性としてあって、そうなると自らを隠さないといけなくなったりします。それでは、「世の中変えられないやん」と思うのだけれど、どうすればいいのでしょうか。隠れずに表に出てきたときは、わりと人数もそろってて、相手が悪だと思っているからデモとかやってしまうのでしょうか?
    (私の感じたことに過ぎないです。感じ方はまた変わってくると思います。そのような自分のこころを観察中です。案外、私の劣等感がそのように感じさせているだけかもしれないです)

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