Bias shaven(バイアス シェイブン)

このセッションでは、自分自身を見つめなおす・正しく見る・客観視するなどのお手伝いをしています。

 

ご自分の人生の目的やテーマなどについて、一緒に考え、追求していきます。

 

Bias とは偏見や思い込みです。

 

様々な評価基準によって対象物や自分をジャッジメントしたり、バイアスがかかった眼で見てしまいがちですが、それらのバイアスを取り除くセッションでもあります。

 

 

 

 

  

料金  ¥15,000-

 

 

期間  2週間のメール・掲示板スクランブルセッション

 

 

 

 

 

 

☆kohya_hibiki

コメント: 17
  • #17

    kohya-hibiki (月曜日, 12 8月 2013 22:53)

    由愛さん、それはとても良い視点だと思います。脱原発と原発推進は女性性と男性性の対立のような関係です。つまり普通にしていれば絶対に重ならない言い分。DND螺旋もこの重ならない螺旋でしょう。でもそれはパワーであり、情報であり、生きる源。。でも一瞬ニアミスする、ここが大事。惑星軌道もこの螺旋とほぼ同じで、ニアミスは彗星に相当します。地球に落ちてきた隕石、江戸維持代までぐらいは”神”とされていました。

  • #16

    由愛 (月曜日, 05 8月 2013 22:47)

    男性性女性性の統合・・
    分離・・・統合・・・
    分離というのは、女性と男性のエネルギーは向きが違うのでしょうか?
    回転の向き?右回り?左回り?外向き?内向き?
    よく分からないけれど、お互いにエネルギーの向きがぜんぜん違うんだったら、男性は男性の道、女性は女性の道をひたすら歩んでたら離れていってしまいますね・・・これが分離でしょうか・・・
    分離から少しずつ統合へむかっていけたらいいなと思います。

  • #15

    由愛 (日曜日, 04 8月 2013 12:48)

    脱原発運動している人の全てが悪い訳じゃないと思います。
    中には本当に必死で信念持ってやっている人もいると思います。
    純粋な気持ちでやっている人も居ると思うし、
    正しい、正しくない、じゃないと思います。

    脱原発運動を肯定はしないけれど、全否定はしないです。
    ただ、私には反対と声をあげる選択はしない、違和感があるからというだけです。
    (というより、私には分かりません)

  • #14

    由愛 (金曜日, 02 8月 2013 08:44)

    ひびきさん、返信をありがとうございました。原発問題についてはを‘私自身の心の隙間’として捉えることが大切ですよね。これまた夫が話をしていたのですが、避難している人のお話会が脱原発や政治活動につながっていること自体がゆるせない事だと話していました。[政治に利用されている]と。結局は「反対」と声をあげてもらったほうが都合がいいのでしょうか。それが真実であれば、原発反対と声を上げる人達の心の隙間にはいったい何があるのでしょうか。隙間に付け入られるということは。セッションを受けて4日目にしてお話会には参加しないを選択しましたが、前後でずいぶんと揺れ動きました。脱原発反対と訴えるのの抵抗ありながら、そんな自分の気持ちを無にしてまで、反対と声をあげるグループで活動したほうがいいのではと真剣に悩んでいました。「もし私の進むべき道だったら」と悩みました。心を空っぽにして脱原発の訴えも耳を傾けるのほうがいいのか、様々な意見を聴くことの練習なのかと解釈もしたりしました。そのような混乱した状態でも、ありがたいのことに、セッション中でも悩んだまま迷ったままの状態をゆるしていただけたことが学びでした。自分が選択するまでは、ブログ上のヒントも自分の精神状態によるものかもしれませんが、解釈の仕方が180度変ってきたりしていました。「参加する」「参加しない」が何度も行ったり来たりしていました。こちらに沢山想いを書かせていただいたり、個人的にメールに書かせていただいたり、でも答えを直接頂けるわけではなくて答えを自分自身で答えを導き出すようにしていただいていました。「参加しない」を決めたときにはじめてひびきさんから返信を頂けたこと。今は迷ってどうかなりそうだった自分の気持ちを調整中という感じでいます。何が「参加しない」という決め手になったのか、実は自分でもよく分かりません。ただ、夫と夜寝る前に沢山話し合ったことが最終的な何かがあったのかなと思います。こちらに沢山書かせていただいた事と同時進行に家族と話し合うチャンスも巡ってきました。もうあまり記憶がありませんが、なにかしら、自分の身近なあれこれが重要になってきて、朝起きたらお話会「不参加」のボタンを押していました。最初から最後まで訳が分かりませんが(良い意味で)、結果オーライとしていきたいです。読んで頂きありがとうございました。引き続き何か気がついた事があれば書いていきたいです。

  • #13

    kohya-hibiki (木曜日, 01 8月 2013 13:12)

    由愛さん、この度は『Bias shaven(バイアス シェイブン)』にお越し頂きありがとうございました。

    由愛さんが多くの真実を書いてくださっているので、私はもうほとんど何も言うことはありませんが、【原発】というのはまさしく地元を愛し、地元のために活動する若者がたくさんいれば、地域に入り込む余地などない異質物です。それが各地方に生まれて事故を起こしているのは、私自身の”心の隙間”の問題と捉えなければいけないのに、それを「原発ハンタイ」と叫んで喧嘩をするのはまさしく「争いのための争い」でしょう。

    原発ハンタイというのなら、まさに由愛さんのように地元の活動に参加し、原発の誘惑に負けない、心の隙間を作らない、地域の結束を強くする、ほうがよほど現実的だと思います。

    脱原発運動はおっしゃるとおり、ある種の新興宗教であり、民主主義的聖書ではありません。これがいわゆる”バイアス”ですけれども、各地域に住む人たちが原発の誘惑に負けない強い地方を作る活動というのはとても強力な民主主義的聖書となります。

    私たちにとっての”聖戦”は原発を攻撃することではなく、”目の前に倒れている人に一切れのパンを与えることが出来るか”ですね!

    『正義は信用できない。それはある瞬間からひっくりかえるからだ』と言ったあんぱんまんは神さまです。一連の思考パターンは聖徳太子に似ています。私たちは本当の意味で自分たちの国をリバース(再誕生)させないといけないと思います^^


    たくさんの書き込みをありがとうございました。引き続きよろしくお願いいたします。


  • #12

    由愛 (木曜日, 01 8月 2013 09:52)

    気になるHPの中に、・・政治の中に、争いのための争いみたいな活動を収める傾向がみられると書いてある。「争いのための争いみたいな活動」が心に響きます。本当にこういったことはやめてほしいです。脱原発運動も、全てが沿うじゃないかもしれないけれど、私は本当に「脱争い事」って言いたいです。

  • #11

    由愛 (水曜日, 31 7月 2013 20:02)

    恐れと不安と向き合いながら、色々な感情を否定せずに、でも一番肝心な事は前向きに感謝の気持ちでこれから生きていきたいです。

  • #10

    由愛 (水曜日, 31 7月 2013 08:58)

    私が避難している立場だったら、あちらでの苦しみから解放されたい。新しい土地では交流の場所を求めると思います。お友達もほしい。地域の人とも上手くやっていきたい。同じ悩みを共有できる場所、話を聴いてもらえる場所もほしいと思います。だから「支援団体」なんでしょうけれど、私だったら、それだけでいいんだと思います。それ以上に、原発反対、政治的な運動にまで気持ちをもっていかれたら、私だったらやめてほしいと感じると思います。ただ平和を求めてきていると思います。

  • #9

    由愛 (月曜日, 29 7月 2013 19:06)

    「好き」という感情は大切だなと思います。地元が好き、とう感情を育むことは原発の誘惑に負けない強い地元にするとひびきさんも言われていました。ある先生も話をしていました。ある環境番組では、常日頃自然と接していれば自然が「好き」になるし、自然に癒される自分を感じることも出来るし、自然の恵みを受け取る自分自身を感じることが出来ると。そのような経験によって、「好き」という対象(自然)が奪われそうになったときに、はじめて人は保護していきたい、だからそのために活動をするようになるのだそうです。ただ、現代人は自然とは離れてしまっているので、本当の意味で「環境保護したい」という気持ちは芽生えにくいんだと話をしていました。そのように考えていくと、脱原発活動はどのようにとらえたらいいんだろう、と思います。色々な視点で考えてみたいです。

  • #8

    由愛 (月曜日, 29 7月 2013 18:40)

    脱原発って訴えることは、逆に言えば「原発推進力を強めることにもなる」と夫が話をしていました。言葉は悪いですが、反対と訴えているサークルをみていると、まるで新興宗教みたいで違和感があると話をしていました。真面目にやっている方々には申し訳ないです。全ての脱原発活動がそうではないと思います。脱原発が光と例えるなら、推進派は闇でしょうか。単純に考えてみます。光と闇の戦い。光が強くなれば、闇も強くなる。光が闇を受容しないこと前提の正義争いであれば?闇の思う壺だと思います。あんぱんまんでさえ、ばいきんまんを完全にはやっつけない。ばいきんにはばいきんなりの正義があるからだと聞きました。あんぱんまんは、正義は信用できないと。それはある瞬間からひっくりかえるからだと。本当の意味での正義は、目の前に倒れている人に一切れのパンを与えることが出来るか、だそうです。

  • #7

    由愛 (月曜日, 29 7月 2013 14:18)

    放射能で多くの人の健康に影響が出始めるのは、全体的に隠せおおせなくなってきて数十年後などをイメージすると、現在の政治家などはもう年でこの世を去っていたりするのでしょうか。残された私達若い世代、子供達(未来の大人たち)が問題が最高潮の時に立ち会って解決していかないといけないですね。だからといって、恨んだりするのは歴史が繰り返してきたように、分離分離、、の繰り返しなのかなとひびきさんのブログ読んで感じました。これまでの長い歴史で正義を巡っての争い事の末は原発、放射能問題なのでしょうか。(思い込みの勝手な妄想でした・・・)

  • #6

    由愛 (月曜日, 29 7月 2013 09:56)

    福島の出来事はもう起こってしまい取り返しがつかない。
    放射能漏れ、だれも止める事は出来ない。放射能は広がっていく。
    自然が健康被害もこれからどんどん出てくると。
    こんな皆が共有している言葉で言い表せないなにか・・
    こんな状況で、言い争っている場合じゃないと私は思います。
    少しでも状況をよくするために、私だったらどうするだろう、
    今の私はどうしたらいいだろうと思います・・・

  • #5

    由愛 (日曜日, 28 7月 2013 09:23)

    「避難している人のお話を聴きにいく、交流する、支援する」などは前向きでいいと思うけれど、それ以上のことは耐えられない自分の心があります。連日のように「脱原発」だと様々な訴えを書いてくるメンバーの主催するお話会に参加する事に自分の心がバラバラになりそうです。

  • #4

    由愛 (日曜日, 28 7月 2013 09:13)

    連日のように脱原発記事がUPされる。皆がこの情報は分かっているべきことだと政治の裏側情報、放射能情報、、「皆が、知るべき事、だからシェアします」とストレートに書いてきます。無関心は愛の正反対と言いつつ、そうかもしれないけれど、そういったことを読んでいくとなにかしら違和感と言うか反発心も出てくる自分の心があります。自分自身の内面のネガティブが浮かび上がってきます。「脱原発」より「脱争い事」って言いたいです。

  • #3

    由愛 (日曜日, 28 7月 2013 00:00)

    平和じゃないことへの怒りと不安。しっかり受け入れて乗り越えていきたいです。

  • #2

    由愛 (土曜日, 27 7月 2013 20:12)

    平和じゃないことに対する怒りがすごい。悲しみもすごい。そのような心の状態を無視できない。神様がいたら、お願い、この気持ちを包んでくださいと言いたい。正直に想いを書いたら、直後にこみ上げてくるものがあって涙が出てきた。すぐに分かった。お話会で最初から最後まで感じた気持ちだと分かった。同じだった。涙が情けないと出てくる。「気がついてくれてありがとう」を心の声がしたような気がした。自分で自分の心を包んでいかないといけないと思った。自分の気持ち、分かってあげないといけないと思った。ごまかしてはいけない、どんどん傷ついてしまうと思った。

  • #1

    由愛 (土曜日, 27 7月 2013 09:16)

    「避難しているひとのお話会を聴きにいく」というお話会にはじめて参加をしました。私は「知りたい」と思って、知ることから始めようと思いました。そして、避難している人にはせめて楽しく時間を過ごしてほしい、だから交流会などでは楽しんでもらいたい。そういったことをお手伝いできる一人でありたいと感じました。ただ、そこには原発反対とか、政治的なことにも繋がってくる流れとなっていて、その部分については自分の意識が追いつかないのが現状です。

    不安があります。「脱原発」「原発反対」と真剣に討論しあったり、真剣な眼差しで「反対」と訴えたりする雰囲気に抵抗があります。フェイス ブックでも、話題は脱原発と政治的なことばかりです。そして、あまり深くその反対という世界に入り込みすぎて自分自身が世に対して悲観的になりすぎる傾向になっていく流れも感じました。原発の前に、何故そういったことを巡って人同士争わないといけないのか悲しくて涙も出てきました。少し抵抗を感じつつ、でも勉強にはなるなと時々よませていただいています。

    その抵抗はどこからきているのでしょうか?今まで深く考えもしなかったことで、グループの人たちはそれぞれに政治の事も原発の事もとても詳しくて知識も豊富だなと感じました。私が何も知らないから、なおさらそう感じるのかもしれませんが・・・

    今まで、国の抱える様々な問題に対しては無関心で 自分の問題ばかりで過ごしてきました。せいぜい家族の問題ぐらいです。それすら自分のことで考えが及ばないこともしょっちゅうです。私は自分の身の丈に合ったことをやろうとしているのでしょうか。そういったことも悩みの1つです。自分のことで精一杯な人間が、お話会など参加して、政治の事も共に勉強したり、共に脱原発を話し合ったりするグループで勉強したり活動したりしていいものなのか、と思ったりします。